新しい価値と共に、歴史を紡いでいく 【太宰府天満宮 権宮司 西高辻信宏】
10月15日号
日本人は、古来、神聖な力や自然界の生命力あるいは、国家や社会に多大なる貢献を果たした人物を神とし、畏敬の念を持って接してきた。太宰府天満宮の御祭神 菅原道真公もまた、学問や至誠(しせい)、厄除けの神様として、多くの人々から敬い崇められている。
「延喜5年(西暦905年)の祠廟(しびょう)創建以来、道真公は学問の神様として親しまれていますが、文化の神様でもあります。生前には書の三聖の一人に数えられ、和歌や漢詩も巧みであらゆる文化に通じ、学者として『類聚国史』を作られるなど、素晴らしい学才に溢れた方でした」
そう言い、太宰府天満宮で権宮司を務める西高辻信宏さんは「おいしいですよ」と、福岡県太宰府市の名物・梅ヶ枝餅を勧めてくれた。餅の表面には、道真公がこよなく愛した梅の焼印が捺されている。道真公や天満宮は、人々と地域に密接に関わり合っているのだ。
太宰府天満宮×コンテンポラリーアート
太宰府天満宮では、2006年からアートプログラムを開催している。アーティスト・日比野克彦さんとの「描く書く然々(かくかくしかじか)」展を皮切りに、小沢剛さん、ライアン・ガンダーさん、サイモン・フジワラさん、ホンマタカシさんなど、2017年10月までに、合計9回のプログラムを実施してきた。
11月26日から第10回目となるフランス人アーティスト・ピエール・ユイグさんの新作が公開されるそうだ。
日比野さんとは境内でワークショップを開催したのをきっかけに展覧会が実現した。
2011年のライアン・ガンダーさんや2013年のサイモン・フジワラさんの展示では、1000年後にも残る作品をテーマの一つに制作してもらった。
「太宰府・太宰府天満宮について考えたこと、感じたことを作品として制作してもらい、公開し、今後何百年と“太宰府天満宮の宝物”として受け継いでいきたいと考えています。また、一部の作品は境内に展示しています」
ブロンズで出来た椅子と100年先には巨大になっているであろう紅葉が一緒になった作品や、長年「考える人」が座り、その後考えをやめて立ち去った‘痕跡’を残す岩。境内にある作品は、いずれも「時間」という大きな流れに“存在している”ことを感じさせる。
1100年の歴史を持つ太宰府天満宮を、西高辻さんは「開放性と固有性のある場所」と表現する。
「歴史的に見て、太宰府は、諸外国から文化が入って来た場所です。開かれていてイメージが明るい。そして、長く信仰してくださっている地域の方々と道真公との、ここにしかない関係性が存在しています。この2つは、アートプログラムを始めた当初から大事にしてきた要素でもあります」
アートの自由さと幅広さに魅了された
神社で行われるアートプログラム。面白いが、意外性に富んだ掛け合わせだ。ここにたどり着くまで、西高辻さんはどんなことを発見してきたのだろう?
「菅原道真公の子孫として、代々、天満宮の宮司を務めてきた家系なので、子どもの頃から境内で過ごしてきました。そのような時に、宝物殿の収蔵物の話を聞く機会があったのですが、ワクワクしたのは価値の高さ低さではなく、物の持つ歴史的背景でした。いろいろな人に受け継がれてきたからこそ、数百年の時間を経て天満宮にある、というのがよくわかって、子ども心ながら非常に感動したのを覚えています」
アートのおもしろさを最初に知ったのは、中学の頃だ。
中学校生活で最初の美術の授業、自画像が課題に出た。それも、右手で顔の右半分を描き、左手で左半分を描く、という条件付きで。
「いざ描いてみたら、利き手である右手で描く線と左手の線は違うのですね。利き腕じゃないほうで描いたほうが、線が柔らかい。うまく描けていない線にも魅力があること、観察をする目を養うということに気づく事が出来ました」
高校で入部した美術部では、先生と作品の解釈や考え方について多く話した。部員が展覧会で出品した作品は、対話を通して発見したアプローチで描いたもの。それが賞をとることもあった。
上手さ下手さを基準としない視点を発見し、魅了された。
「それが、さまざまな切り口で物事を見たり考えたりできる、アートの自由さや幅広さに対する驚きへと繋がっていきました」
枠を越え、「編集する」アートの面白さ
高校卒業後は東京大学へ進学し、美術史を専攻した。展覧会に行ったり課外授業を受けたり、京都で普段は公開されていない物を見たりして、非常に楽しくすごしたという。東大の博物館での実習では、2001年に『真贋のはざまーデュシャンから遺伝子まで』という展覧会にも関わった。
テレビ番組「なんでも鑑定団」の流行もあって、当時は、骨董品を「本物」なのか「にせ物」なのか、分ける考えが広まっていた。そのなかにあって、この展覧会は、その2つの間に分類できるものがあるのでは、本物をどう定義するか、にせ物とはどう定義されるのか、と考える試みだったそう。
アーティストと対話をしながら、展覧会も作り上げた。
大学4年、履修した授業で「学校内で自分が面白いと思ったものを写真に撮りなさい」とポラロイドカメラが配られた。それから、学生が撮影した写真、数百枚を分類していく。
「大きいもの」「ちいさいもの」……など様々な分類があったが、そのなかでも面白かったのが「大気圏」。なんと、鳥の剥製と飛行機のタービン模型が隣に並んだのだ。
「枠を超えてものを展示し、そこに価値を見出していく。そんな編集的な作業の経験や現代アーティストと対話をしながら物事を決めていくことが、とても新鮮でした」
コンセプトを提示する場としての展覧会と、ジャンルにとらわれないライブ感にあふれた展覧会。それは、西高辻さんにとって新しいコミュニケーション体験となった。
本格的にアートに興味を持ち、本を読んだり、ギャラリーを訪ねるようになったそうだ。23歳の頃には自身の初めてのコレクションとなった、写真の作品を購入。それからアートフェアの招待状が届くようになり、学校の先輩にもギャラリーを教えてもらい……とアートに深く入り込んでいった。
アートと九州国立博物館を身近に感じてもらうために
2005年4月、太宰府へ戻ってきた。その頃について「アートに触れる機会が少なく驚きました」と、西高辻さんは振り返る。
アートプログラムが実際に走りだしたきっかけは、水戸芸術館での企画展「日比野克彦の一人万博」だ。
「これまでにアートで体験してきたことが非常に印象的だったので、ほかの人にもそういう体験をしてもらいたい、と思っていました。10月のオープンを控えていた九州国立博物館も身近に感じてもらえるような環境がつくれたら、と考えていたのです」
「水戸芸術館での展示には、市民の方と協力して展覧会をつくる、というワークショップがありました。『こういう機会があれば、みんながアートに簡単に関わることができる』と思い、日比野さんに太宰府でも展示やワークショップをできないか相談しました」
こうして実現したワークショップを中心としたプロジェクト「アジア代表日本」と展覧会「描く書く然々」から現在まで、様々なアートプログラムが太宰府天満宮で行われることとなったのだという。
自分を“歴史化”することで、変化への一歩を踏み出せる
西高辻さんは、同じく太宰府にある竈門(かまど)神社も兼務されている。
肇祀1350年を迎える記念の年に向けて、竈門神社の社務所・参集殿の建て替えを計画し、多くの人に反対される中で実施に踏み切った。
社務所のデザインについては、「100年先のスタンダードをお願いします」と世界的にも有名なインテリアデザイナーの Wonderwall 片山正通さんに依頼した。
古さと新しさが組み合わされた美しい場は話題を呼び、結果、建て替え前に比べ、3倍の参拝者が訪れる場になったという。
長い時間が積み重なり、歴史ある存在に手を加える時、どういった決断をするのか。進む方向への確信をどう得るのかを訊ねた。
「どうあっても最後は自分自身が責任を負う立場である、ということが決断の後押しになっています。ありがたいことに、私は決定権のある立場に就かせていただいています。最終的には良いと思ったことを選び取れていると思います」
「責任を取る」
この言葉は、私たちが想像する事が出来ないほど本当に重いもの。西高辻さんのルーツ、そして多くのアートの体験を通じ、得た審美眼があるからこその判断であろう。
「例えば……」と、こんな話をしてくれた。
太宰府天満宮には、境内から少し離れたところに駐車場がある。この駐車場は、西高辻さんの祖父・西高辻信貞さんがつくったものだ。戦後間もない頃に留学したアメリカで、車の需要が高まっていくのを目撃し、いずれは日本にもモータリゼーションの時代が来ると考えた。
駐車場をつくる際、土地を買う為に、家を抵当に入れるほどの大決断。周囲はかなり戸惑ったが、予想通り日本にもモータリゼーションの時代がやってきた。その後、現在に至るまで駐車場の利用者が天満宮までの道々に買い物し、まちが潤う。そんな構図が生まれた。
「車はほとんどなかった時代なので、変わった人だと思われたかもしれません。戦後すぐの時代に祖父も苦労しながら大きな決断をし、変化を進めてきたのだと思います」
もう一つ“歴史化する”という考え方もあるという。現代までつながる歴史を調べると、時代ごとに、たくさんの人が影ながら変化を加えてきたことがわかる、と背筋を伸ばす西高辻さん。そこに見えるのは、道真公の墓所を長年守り続け、これからも守っていく、という一脈と覚悟だ。
「自分の決断もその流れに入るものとして“歴史”として考えると、チャレンジしやすくなります」
西高辻さんは、新しいことを始めるとき、意識的に歴史的な流れを汲みながら説明するようにしている。そうすることで理解者を増やしていくことができるのだ。
太宰府天満宮をみんなの“心のふるさと”に
「今やっている活動を続けていって、太宰府を訪れるみなさんの故郷にしたい、と思っています。祖父が、かつて『太宰府を心のふるさとにしたい』と言っていました。懐かしさと新しさがあり、訪れる度に気づきを得られる。地縁があってもなくても“心のふるさと”と感じられる。『いいね』と思ってもらえる、故郷です」
今は都市化が進み、どこも差異がなくなってきている。太宰府とどのように歩んでいくのか。
「今、自分自身がやっていることも含めて、土地の特徴がある場所にしたいのです。また天満宮を通して、素晴らしいと思うこの国の良さを国内外へ伝えたいと考えています。そのために、何を残すのか、何を変えていくのか、見極めたいと思っています」
西高辻さんがこの先に見せてくれる変化。
それによって、太宰府というまちがよりいっそう際立った存在になっていくのだろう。
インタビューを終えて太宰府天満宮の境内に入ると、さっきよりも空気が自分を大きく包み込んでくれるように感じた。
境内に多く存在する樟(くすのき)が目に止まる。一番大きな木で樹齢1500年とも言われている。
目を閉じると、葉を揺らす風の音がしっかりと聞こえた。
私たちは、悠久の時間の「現代」という”点”に生まれたとても小さな存在だ。
歴史ある神社へ出向き、目には見えない神様に手を合わせ祈る。いつの時代にも八百万神の存在と自然に、祈りを捧げ生きてきたのだ。ひと呼吸して目を開き、樟を見た。ここに存在し、時間の中で生まれていく表現に触れる事が奇跡に思えた。
時間と表現で「新しい価値」を紡ぐ、太宰府天満宮。
守り、挑戦していく人の手によって、100年先も、1000年先も、その価値は受け継がれていく。
kakite : 松本麻美 & 柿内奈緒美/photo by BrightLogg,Inc.(提供画像除く)/EDIT by PLART(柿内奈緒美)
西高辻 信宏/Nobuhiro Nishitakatsuji
昭和55(1980)年、福岡県太宰府市生まれ。
御祭神菅原道真公から数えて40代目に当たる。
東京大学文学部歴史文化学科(美術史学)卒業。
國學院大學大学院文学部神道学科で神職資格並びに修士号取得後、平成17年(2005)より太宰府天満宮に奉職、平成19年(2007)太宰府天満宮権宮司拝命、現在に至る。
平成20年(2008)より2年間、ハーバード大学ライシャワー研究所客員研究員。
平成24年(2012)より、太宰府天満宮宝物殿館長、同文化研究所所長。
現代美術に造詣が深く、平成18年(2006)に立ち上げた太宰府天満宮アートプログラムは、内外から第一線で活躍するアーティストを招き、現代文化の多様性を呈示するユニークなプログラムとして認知されている。