“何もなかった”から思い描く、百花繚乱の世界【PLART STORY 編集長 柿内奈緒美】

PLART編集部 2017.11.15
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11月15日号

 

ウェブマガジン『PLART STORY』が2017年11月15日に1周年を迎えた。編集長を務める柿内奈緒美(以下、柿内/カッキー)は、日々フットワーク軽く人と出会い、人をつなぎ、『PLART STORY』を発信してきた。同時に雑誌の情報を、「本日のまがじぃ~ん」という形で5年半に渡りアウトプットを継続している。

初めて会ったのはインタビューの1か月前。彼女はある著名な方の名前を挙げ、「この人にいつか会いたい!会う!」と目を輝かせていた。インタビュー当日、会いたいといっていた“この人”は「最近会えた人」に変わっていた。

『PLART STORY』はようやく1歳。歴史の浅いウェブマガジンにも関わらず、毎号知る人ぞ知る個性豊かなインタビュイーが登場する。その方々との縁を作ってきたのが、柿内だ。大企業や権力者のバックアップがあるわけでもなく、どうやって?

『PLART STORY』1周年という節目に話を聞いた。

 

何もなかった。だから自分から近づいた。

1981年、岡山県生まれ。「自然しかない場所で育った」と彼女は言う。そして写真で見せてくれた実家の前の風景は、現代美術家である会田誠さんの《あぜ道》を地でいく、真っすぐに伸びる道があるばかりの景色。

「こんな場所で育ったから真っすぐにしか生きられないんだね、と言われたことがあります(笑)」
小学校へは歩いて片道1時間、中学・高校へは自転車で片道1時間かけて通学した。
「何もない場所だから、空想ばっかりしていました。あとは通学路の途中でビワやアケビをとって食べたり、竹林の竹で何かできないかなと弓矢をつくってみたり。あそこにトトロがいたらって妄想したり。というかトトロは本気でいると思っていました(笑)」

子供の頃は多かれ少なかれ空想の世界に浸るものだ。しかし彼女には、その時間が人並み以上にあったはず。

「ライフスタイルに関するアイテムやコンテンツは何もない場所でしたが、自然は本当に豊かでした。思いを巡らせるとか、星空を見上げて、歌を唄うとか。何があっても自然や目に見えない神様のような存在が守ってくれてる。そんな風に思って、自由に育つことができたのは、あの場所だったからだと思ってます」

自然という大きなものに包まれ、そのスケールの中で育ったおかげかもしれない。今、目の前にいる彼女には、人も、山も、足元の草花も、空想や理想も、自分を取り巻くすべてを同じスケールで捉える距離感があるように感じる。

雑誌を好むようになったのは高校生になってからのこと。ファッション誌『Zipper(祥伝社)』や『CUTiE(宝島社、2015年9月休刊)』、矢沢あい氏原作の少女漫画『ご近所物語』『パラダイスキス』を愛読し、服飾やデザインに興味をもつようになった。
「雑誌と漫画の情報がライフスタイルのすべてだったから、その世界に生きていた」
雑誌でみる服は岡山県内では手に入らなかった。ネット通販で簡単に手に入れられる時代でもなかったから、アルバイトに精を出し、貯めたお金で大阪へ遠征し、憧れのブランドの服を手に入れるという生活だった。

「HYSTERIC GLAMOUR、BETTY’S BLUE、SUPER LOVERS…、なつかしい!(笑)半年くらいアルバイトでお金を貯めて、大阪へ行って。そしてまた次の半年も」
自分が生きる場所に欲しいと思うものがない、だからこそ外に向かって動く。
”ない”というゼロの状態から、”ある”という1の現状に変換するため、彼女は学生時代から動いていた。

 

やらない理由を探さない。どうやるかを考えている。

インタビューは、11月の3連休初日、秋の日差しが差し込む代官山のカフェ「私立珈琲小学校」で行われた。カフェのオーナー吉田恒さんは、21年にわたり都内の小学校で教壇に立っていたという異色の経歴の持ち主。「カッキーとはこのお店の展示イベントで出会いました。彼女の髪があの色になるよりも前でした」と振り返る。

「人ってやりたいことがあっても、やめる理由を探して諦めることが多いですよね。たとえばライターになりたいと思っても『コネもないし』『ライターはもうたくさんいるし』『食べていけるか分からないし』とか。カッキーは、やらないための理由探しをしない。どうしたらやれるかだけを考え続けているように見えます

高校を卒業したのち関西の服飾系専門学校へ進学。社会人になると、いくつかの仕事を経験する。

転機は27歳の時。20歳の時から付き合っていた恋人との別れだった。結婚の話も出ていたので「彼と一緒に生きていくため」と計画を立て、二人の将来の準備となる行動をとっていた。別れてみて気がついたのは、7年間“2人の将来”は考えていたが、ひとりの大人としての自分に目を向けていなかったこと。10年先に“自分が”どうありたいかを考え、計画を立て直した。

「東京に行きたい」と考えるきっかけはあるアパレル・雑貨メーカーで働きたいと思ったから。
それを念頭に置きながら、ステップアップを狙った東京のアパレル会社から内定をもらった。
下見もかねて一度上京し関西に戻った翌日、日本人の価値観が一変したあの東日本大震災が起きた。その後、アパレル会社より”内定取り消し”という連絡も重なった。

こんなに大きな出来事があれば、次の場所へ進むことを止めてしまいそうになる。それでも「東京へ行きたい」という気持ちが途切れることはなかった。
2012年2月、就職先を決めるより先に上京。出立の直前に読んだ雑誌『CasaBRUTUS』2012年1月10日発売号はシェアハウス特集。表紙に載っていたシェアハウスに憧れ、さっそく管理会社に問い合わせ、同系列のシェアハウスに入居した。

 

「この人が好き」「この街が好き」

「好き」を思いだけで終わらせず、「これが好き」「これをしたい」と言葉にし実現してきた。東京で仕事を見つけ、シェアメイトとも快適に暮らし始めていた。しかし入居から約1年で、そのシェアハウスからの退居を決める。

「居心地が良かったんです。日曜日は、夜ご飯を皆で作って食べました。サザエさんをみながらアハハって笑って。でも、ふと『夢を叶えるぞ!』と気合いを入れて東京に出てきたのに、みんなの優しさに甘えてぬるま湯に浸かってると思ってしまったのです。そんな時、同系列シェアハウスの大きなイベントがあり、物件の代表として関わりました。そこで本当に色んな人たちに出会い、刺激をもらいました。コミュニティを作る面白さにも気づき始めた頃だったので『ゼロからコミュニティが出来るところを見てみたい』と考え、駒沢に新しくできるという大型シェアハウスに引っ越すことに決めました」

 

73人が暮らすシェアハウス村で

「村長さんのようなポジションだった」と、彼女は当時の自分を振り返る。73人が暮らす大型シェアハウスの住人第1号となった。歓送迎会や住人会議の開催、シェアハウスのコミュニティスペースで朝活の企画運営、関東圏のシェアハウスとの合同イベントをオーガナイズしたり、コミュニティを作る側にシフトした日々を送り始めた。

「たしかに大きなシェアハウスでしたから、ひとつの村のようでした」
そう話すのは、シェアメイトの一人だった佐山アランさん。

(同系列シェアハウスのフットサル大会でシェアハウスのオリジナルTシャツを着て)

「僕が入居したのはシェアハウスがオープンして2か月後くらいです。初日からシェアメイトの皆と仲良くなれたのは、カッキーのおかげだったと思います。彼女は当時の自分を『村長』と言いますよね。村長というと穏やかに見守るようなイメージがありますが、どちらかというと彼女は『ひっぱっていく人』。行動力とフットワークの軽さが尋常じゃありませんでした」

会いたい人に会う力

2011年12月開業の代官山Tサイト。旧山手通り沿いにある、「代官山 蔦屋書店」を中核とした商業施設だ。
彼女はその存在を、雑誌『GINZA』2011年12月発売号で知った。株式会社スマイルズの遠山正道さん(とおやままさみちさん 以下遠山さん)が代官山を紹介する特集記事を読み「めっちゃいいじゃん」「絶対に行こう」と決めた。さらにFacebookで遠山さん宛てに、特集の感想と「絶対に上京します」という決意表明ともいえるメッセージを送った。

「それから2週間後、年末年始にかけて東京に遊びに行きました。12月29日から3日まで、毎日代官山に通って『やっぱりいいなぁ』って。元旦も一人で代官山に行ったその帰り道、遠山さんからFacebookでお返事がきたんです!『今年もお互い頑張りましょう♩』って。
ちょうど東京にいるタイミングだったのもあり縁を感じました。東京にくれば、自分が憧れている人たちに近づけると思いました」

上京後、ランニング中の遠山さんを見かけ、迷わず挨拶した。その後もイベントで遠山さんをみかけるたびに名刺を渡した。何度目かに会った時、名刺を受け取った遠山さんが「最初に会ったのはいつだっけ?」と言ってくれた。そして「もうちょっと何かやらないと覚えてあげないよ」と笑った。この一言は彼女のモチベーションの上昇に火をつけた。

(KIRIN シードル Green Apple Museumオープニングレセプションでの写真)

「昔からすごく負けず嫌いなんです。ただ、人に負けるのが嫌いというより自分に負けたくないという気持ちです。この時もショックというよりか、覚えてもらえる様な事が出来てない自分がすごく悔しくて、絶対にやってやる!って武者震いしてました(笑)」

憧れの人に近づきたい。コミュニティを作りたい。より広く人をつなぎたい、つながりたい。
そんな思いがウェブマガジンという形での社会へのアプローチにつながっていった。

 

シェアハウスで出会った多様な価値観

居心地の良い、時間。空間。人間(じんかん)。
柿内が大事にしてきたキーワードだ。73人が暮らすシェアハウスは、この思いを実践できる場所だった。同時に自分の行動と他者の行動を常に比較する場所でもあった。「他者と共に暮らす」とは他者の価値観や言葉、行動に日常的に触れながら、お互いの生活を共存させること家族や友達、恋人とではなく、縁あって偶然そこに居合わせた他人との暮らしだ。
年齢も性別も職種も異なる人たちとの暮らしでは、もちろん価値観が合わない人はいたという。

「いや、否定したりはしません。そういう人なんだなと思うだけです。一度はその人の立場に自分を置いて、どういう気持ちなのだろうと想像します。だってほら、小さい時から妄想ばっかりしていましたから(笑)」

村長さん的なポジションで3ケ月が経った頃、ボルダリング中、くの字の体勢で背中から落下し、救急車で都内の病院へ搬送された。腰椎破裂骨折だった。7時間に及ぶ手術を受け下半身不随は免れたものの、退院後もコルセットをつけてのリハビリ生活を余儀なくされた。落ちた体力の回復に努めるが、常に腰は痛み右脚は痺れていた。日常生活を支障なく送れるようになるまでに、1年を要した。

それでもシェアメイトの前では無理してでも明るく振る舞っていた。そんな折、長い間寝たきりだった父親が他界。「明るいカッキー」という仮面が壊れて落ちた。

「皆の前では常に明るくいなくちゃいけないと思っていました。でも『辛い時は辛い』『無理するな』と。シェアメイトが許してくれて、認めてくれました。フルパワーの自分でなくてもいいんだと思えて、それが私には本当にありがたかったのです。強がってるのは気づかれてたと思うけど(笑)」

インタビュー中、何度か「許してくれた」という言葉を口にした。

「自分のことでいっぱいいっぱいで、コミュニティや自分のやるべき事が中途半端になっていたことがありました。その事をシェアメイトや周りの人たちは許してくれ、応援してくれました。だからここまで走ってこれた、と思ってます」

そして松下幸之助の著書で出会った、「百花繚乱の世界」というフレーズを紹介してくれた。

百花繚乱というのは自然本来の姿なのですな。野に草花が咲き乱れている。その花々はタンポポはタンポポで、スミレはスミレで自分というものを咲き誇っていますよ。そして全体が生き生きと調和している。それでいいのですね。人間はともすれば何かにとらわれてその自然本来の姿を忘れてしまう。そこに不幸が生まれてくるのではないでしょうか。お互いに、みずからの持ち味を生かした人生なり生活を送ることが大事で、そこに人間としての成功の姿があるということにいま一度思いを致したいものだと思いますね。(「人生談義」松本幸之助 1998 PHP文庫より引用)

「今の日本社会は個性を発揮するどころか、鎖がついてしまってます。一番美しく咲ける場所で咲くこと。それぞれの個性が活きて、与えられた天命を全うすること。それこそ、理想の社会だと思いました。人の個性を否定するのではなく違いを認め合う。『私はこんな人間です。意見がぶつかる時もあるかもしれないけれど、許してね。私もあなたを許すから。認めるから。私という人間を認めてくれてありがとう。あなたはあなた、私は私でいようね』そう言いあえることは私がイメージしている百花繚乱の世界につながっていくと思っています」
コミュニティを繋げたい。いい!と思うもの、こと、好きな人たちを紹介したい。

その思いが、ウェブマガジンの発行につながった。『PLART STORY』のビジョン、“百花繚乱の世界が見たい”もここに由来する。いかに人をつなぎ、社会・世界にアプローチしていくか。そして行き着いたテーマが、アートだった。
1人1人がアイデンティティを持ち、表現する事を恐れない素地を作りたいです。それにはアートという切り口で編集すれば、どこまででも伝えて、繋がっていけると思いました。アートは人の表現だから。人が創るものだから

 

PLART STORY、未来への滑走路

現時点での『PLART STORY』は、日本に向け日本のアートとアートを取り巻く人を紹介する媒体だ。次の1年以内には、海外に向け日本のアートや表現を発信し、3年以内にPLARTの世界観を表現する場所を創りたいと言う。
インタビューを終え、店外で秋空に向かい伸びをする柿内に、「私立珈琲小学校」の吉田さんは温かい目を向けた。

「夢や思い、ストーリーを持つ人に対し、財を持つ人が出資し、その人たちの活動が世の中に伝わり、幸せが還元されていく。そんな粋な仕組みがもっとあったらと思います。でも彼女は今、それに近い仕組みを自ら生み出そうとしているように見えます」

好きなものやしたいことを力むことなく公言する。友人のアランさんは「言い切ることで自分を追い込むスタイルかも(笑)」とも言っていた。

好きや憧れを言葉にする時、彼女は「あの」ではなく「この」を使っていた。
「あの街」ではなく、「この街に住みたい」。「あの人」ではなく「この人に会いたい」。なんなら松下幸之助さんの本を手に「ああ」ではなく「こうなりたい」と声を弾ませる。
“何もなかった”地元で、憧れの世界に浸って育ったからこその、憧れとの距離感。「憧れは手に届くもの」という信念を、言葉や行動に感じる。『PLART STORY』の記事1本1本が種となり、百花繚乱の一輪になる日も近いのかもしれない。

 

THANKS A LOT TO Wataru Yoshida , Alan Sayama ,and Smiles Co., Ltd.
kakite : Fumika Tsukada / photo by Yuba Hayashi / EDIT by Chihiro Unno


 


柿内 奈緒美/Naomi Kakiuchi
PLART 代表・PLART STORY 編集長 
1981年 岡山県生まれ。1998年から関西、2012年2月に上京。
飲食業界、理美容業界、インテリア・建設業界、アパレル業界、多様な業界で接客・事務・営業・企画職に従事。
2005年より個人サイト「medley Labo」を運営。外部のウェブメディアで執筆するようになり、最終的にウェブ業界へ。
目標を追いかけ、2012年上京を機に住みはじめた大型シェアハウスでの暮らしを雑誌「Lush Life」として創刊。PLARTを立ち上げるきっかけになった。人の表現であるArtをさまざまな角度から見つめて紹介する「PLART STORY」を2016年11月よりスタートさせる。

 

取材場所協力 私立珈琲小学校
住所:東京都渋谷区鶯谷町12-6 LOKOビル 1F
営業時間:〔火~木〕11:00~19:00〔金~日〕11:00~20:00
定休日:月曜

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